福島地方裁判所 昭和27年(行)22号 判決 1955年12月16日
原告 株式会社石川炭砿
被告 福島労働者災害補償保険審査会 外二名
訴訟代理人 岡正男
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、
(一) 被告福島労働者災害補償保険審査会(以下、被告審査会という。)が原告の審査請求に対してした「富岡労働基準監督署長がなした遺族補償費の一〇〇分の五〇に相当する額を支給しないと決定を取消し、一〇〇分の四〇に相当する額を支給しないとする。その余の請求は立たない。」との昭和二七年六月九日附審査決定中、「一〇〇分の四〇に相当する額を支給しないとする。その余の請求は立たない。」との部分を取消す。
(二) 被告富岡労働基準監督署長(以下、被告署長という。)が原告に対し労働者災害補償保険法(以下、保険法という。)第一九条により昭和二六年九月一三日の出水事故の罹災者根本亮および石本喜代治の遺族補償費の一〇〇分の五〇に相当する額を支給しないとする同年一〇月二五日附決定を取消す。
(三) 被告福島労働基準局保険審査官(以下、被告審査官という。)が前項の決定に対する原告の審査請求を棄却した昭和二七年二月一五日附審査決定を取消す。
(四) 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決を求め、請求の原因および被告らの主張に対する答弁として、
(一) 原告は、福島県双葉郡広野町で石炭採掘事業を営む株式会社であるが、昭和二六年九月一三日、原告経営の石川炭砿内本線右一片坑道に出水事故があり、このため、本線切羽附近にいた根本亮および石本喜代治が溺死し、額田藤吉ほか二名が負傷した。被告署長は、右事故が保険法所定の事故であるとするとともに、原告の重大な過失によつて発生したものであると認定し、同法第一九条を適用し、死亡者二名に対する遺族補償費のそれぞれ一〇〇分の五〇に相当する額につき、保険給付を支給しないと決定し、同年一〇月二五附富労基監第七七号(2) によつて、これを原告に通知した。原告は、右決定に異議があつたので、同年一二月三日被告審査官に審査の請求をしたが、昭和二七年二月一五日附決定によつて棄却され、原決定が維持されたので、同年三月一四日、更に被告審査会に対して審査の請求をしたところ、同被告は、同年六月九日附決定により、被告署長の一〇〇分の五〇に相当する額を支給しないとの前記決定を取消し、保険給付を支給しない額を遺族補償費の一〇〇分の四〇に相当する額に変更するとともに、原告のその他の請求は立たないとし、同年八月四日附通知書によつて、これを原告に通知し、同月六日原告は右通知書を受取つた。
(二) しかし、被告審査会の右審査決定は、次の理由によつて違法である。
(イ) 原告は、被告署長の前記決定に対し、本件事故が原告の重大な過失によつて発生したものでないことを理由として、その取消を求めるため、被告審査会に審査の請求をしたのであるがこれに対して同被告のした決定のうち、保険給付を支給しないとする額を変更した部分、原告の請求の範囲外の事項についてされたものである。すなわち、原告は審査の請求によつて、被告署長の決定そのものの取消を求めたのであつて、保険給付を支給しないとする額の減縮を求めたのではないのに、被告審査会は、前記のような決定をしたのである。もつとも、原告の審査請求書には、被告ら主張のように、請求の趣旨として、遣族補償保険給付の全額支給を求めると記載されているけれども、これは、本件事故は原告の重大な過失によつて生じたものでないとの主張の結論を表示したのにすぎない。もともと、労働者災害補償保険審査会は、審査請求の範囲内においてのみ、原決定の適否を判断する権限を有するにすぎないから、被告審査会の審査決定中前記の部分は、不告不理の原則に違反する違法のものである。
(ロ) 仮に、原告の右審査請求が被告署長の決定そのものの取消とともに保険給付を支給しないとする額の減縮を求めたものであるとしても、保険法第一九条所定の制限事由がある場合、労働者災害補償保険給付の支給制限をするかどうか、また、制限の程度をどうするかは、もつぱら労働基準監督署長の自由裁量に属する事項であつて、これについては、審査の請求もまた審査して決定をすることもできず、制限事由の有無に関する判断についてのみ審査が許されるにすぎないから、被告審査会が被告署長の定めた保険給付の支給制限の額を変更したのは、自己の権限に属しない事項について審査決定をしたわけであつて、明らかに違法である。
以上のように、被告審査会の審査決定中、保険給付の支給制限の割合を変更した部分は違法であり、更に、右決定中原告のその他の請求は立たないとした部分も、右違法な部分と不可分な関係にあるから、これらの部分の取消を求める。仮に、審査決定の一部についてその取消を求めることはできないとすれば、右審査決定は、その重要な部分において違法であるから、全面的に違法な決定となり、取消を免れない。
(三) 更に、本件出水事故は、原告の重大な過失によつて発生したものではなく、従つて、保険法第一九条による保険給付の支給制限をすることはできないのに、被告署長は、右事故が原告の重大な過失によるものと認定して保険給付の支給制限を決定し、被告審査官および被告審査会は、いずれも右認定を維持する趣旨の決定をしたのであつて、右各決定は、この点において違法であるから、その取消を求める。本件出水事故が不可坑力によるものであること、および原告が法令や監督官の指示に従い、事故防止のため十分の措置を講じてきたことは、(四)および(五)にのべるとおりである。
〔(四)本件事故の原因及び(五)原告の実施した事故防止措置(略)〕と述べ被告らの主張のうち原告の主張に反する部分を否認した。
被告審査会代表者ならびに被告審査官および被告署長指定代理人は、主文同旨の判決を求め答弁として、
(一) 原告請求原因第一項を認め、第二項以下を否認する。
(二)(イ) 被告審査会が原告主張のように決定をしたのは、原告の昭和二七年三月一四日附審査請求書に、請求の趣旨として、「富岡労働基準監督署における添付決定書による請求金額に対する半額支給を取消し全額支給賜る様福島労働基準局審査官に対し審査請求せし所該請求を認めない旨の決定に対し御審査を請う」と記載されていたので、これに対してしたのであり、原告の請求しない事項について判断したわけではない。仮に、原告は、本件事故が原告の重大な過失によるものでないことを理由に、被告署長の原決定の取消だけを求めたのだとしても、被告審査会の前記決定は、原告の請求と全く関連のない事項についてされたものでもなく、原告に対し原決定を不利益に変更したものでもないから、これを違法とすることはできない。
(ロ) 原告は、保険法第一九条所定の事由がある場合、保険給付の支給制限をするかどうか、および、制限の割合をどうするかは、労働基準監督署長の自由裁量事項であつて、労働者災害補償保険審査会には、右自由裁量事項について審査する権限がないと主張するけれども、労働基準監督署長の行う保険給付に関する決定に対し、審査の請求を認めたのは、労働者の遺族および事業主にとつて重要な保険給付の支給の有無又はその額について、簡易迅速な解決を図るためであつて、この趣旨からすれば、労働者災害補償保険審査会は、単に制限事由の有無についてだけでなく、保険給付の支給制限をするかどうか、および、制限の割合をどうするかの点についても、原決定の当否を審査し、これを変更することができると解すべきである。従つて、被告署長の決定を原告主張のように変更した被告審査会の決定は正当である。
(三) 本件出水事故は、原告の重大な過失によつて発生したものである。(中略)
<立証 省略>
理由
先ず被告署長および被告審査官に対する請求について判断するに、
被告署長の決定は、被告審査会の決定によつて取消されたのであり、また被告審査会の決定は、被告審査官の決定を取消すと宣言はしていないが、被告審査官の認容した原決定が右のとおり取消されたのであるから、被告審査官の決定もおのずから取消があつたものとなるわけである。そして行政訴訟の結果、被告審査会の決定が取消され、被告審査会が改めて決定すべきものとするも、被告審査会は、後に述べるように、不告不理の原則に支配されて、原決定を原告の不利益に変更することはできないのであるから、被告審査会を相手方として出訴した以上、被告審査会によつて既にその処分の取消された被告署長および被告審査官をあわせて相手方として、それぞれの処分の取消を求めるのは、訴の利益がないわけであるから、被告署長および被告審査官に対する本訴請求は、この点においてこれを棄却すべきものである。
次に被告審査会に対する請求について判断するに、
原告が福島県双葉郡広野町で石炭採掘事業を営む株式会社であること、昭和三八年九月一三日原告経営の石川炭砿本線右一片坑道で出水事故があり、このため本線切羽附近にいた採炭夫根本亮および石本喜代治が溺死し、額田藤吉ほか二名が負傷したこと、原告主張のような経過で、被告署長の同年一〇月二五日附決定、被告審査官の昭和二七年二月一五日附決定および被告審査会の同年六月九日附決定がされたこと、は当事者間に争いがない。
原告は、被告審査会の右決定は、(イ)不告不理の原則に反し、且つ(ロ)その権限に属しない事項について決定した違法があると主張するので、検討するに、
(イ)行政処分について、異議の申立、審査の請求または訴願など、上級庁に対する不服申立の制度が設けられているのは、できるだけ国民の利益を図るとともに、上級庁が監督権を有する場合には、その監督権を実効あらしめることを期待しているものと解すべきであるから、裁決庁が上級監督庁であるときは、当事者からの不服申立の範囲に拘束されることなく、その監督権の発動として原決定全体についてこれを審査し、原処分を、訴願申立人の不服申立の程度以上に申立人の有利に変更することも、また、申立人の不利益の変更することもできるのであるから、このような場合には、不告不理の原則の適用はない。しかし裁決庁が監督権を有しないときは、これと異り、審査の範囲も不服申立の限度に制限されるべきであるからこのような場合には、不告不理の原則の適用があると解すべきである。ところが労働者災害補償保険審査会が、保険審査官、労働基準監督署長の上級監督庁であると認めるべき法規が存しないのであるから、本件には不告不理の原則の適用があるものといわなければならない。しかし、甲第五号証によれば、原告の被告審査会に対する請求は、その請求の趣旨において「被告署長の半額支給を取消し、全領を支給するよう被告審査官に対し審査の請求をしたところ、被告審査官は右請求を認めないとの決定をしたから、右決定に対し審査を求める。」と記載されていること、その請求の理由において、本件事故は、原告の重大な過失によつて発生したものでないことを詳細記載し、保険法第一九条によつて保険給付の支給制限をした被告署長の決定および右決定に対する原告の審査請求を認容しなかつた被告審査官の決定が違法であること、を主張したものであることが明らかである。被告審査会は、甲第三号証の二によれば、右請求の趣旨を「一〇〇分の五〇に相当する額を支給しないとする行政官庁並びに保険審査官の決定を取消し、その全額を支給するとの決定を求めた。」と解したことが明らかである。甲第五号証には原決定の取消を求めると明らかには記載してないが、原告が全額の支給を求めた以上、被告審査会のいうように原決定の取消を求めたものと解するのが相当であり、また全額の支給を求めるといつても一〇〇分の五〇に相当する金額は既に支給されることになつていたのであるから、その余の一〇〇分の五〇の支給を求めたことになるわけであるから、被告審査会が、「被告署長の一〇〇分の五〇に相当する額を支給しないとの決定を取消し、一〇〇分の四〇に相当する額を支給しない。」と決定したからとて、--従つて先きの一〇〇分の五〇に、更に一〇〇分の一〇が加えられて、一〇〇分の六〇に相当する額が支給される。--請求しない事項について審理決定したものということはできない。これを取消の点からみると、被告審査会は、全面的に原決定を取消してはいるが、その実質は、原決定のうち一〇〇分の四〇に相当する額の不支給の部分を認容し、一〇〇分の一〇に相当する額の不支給の部分を取消したと同一であるから、原告の求めた取消のうち、被告審査会は、その一部の取消をしたことになるわけであつて、この点からいつても、被告審査会は、原告の請求しない事項について審理決定したものということはできない。
更に原告は、保険法第一九条の制限事由がある場合、給付の支給制限をするかどうか、制限の程度をどうするかは、もつぱら労働基準監督署長の自由裁量に属する事項であつて、労働者災害補償保険審査会は、制限事由の有無の点についてのみ審査決定の権限があるだけで、支給制限の額を変更する権限はないと主張するが、右法条は、「政府は、保険給付の全部又は一部を支給しないことができる。」と規定し、保険法施行規則第一条第二項は保険給付などに関する事務を署長の管掌と定め、保険法第三十五条は審査宮、審査会に遂次審査を請求することができると定めているのであつて、署長、審査官、審査会がともに政府の機関である以上、特別の明文のない場合において、原処分庁である署長のみがひとり制限または制限の程度について自由裁量権を有し、審査官、審査会は、これを有しないと解すべき理拠がない。若し原告主張のとおりに解すべきものとすれば、審査会(審査官についても同様である。)が制限事由があると認める限り、常に審査の請求を棄却しなければならないのであるから、加入者または労働者は、制限の点、制限の程度の点については全然不服の申立をすることができないと同じ結果になるわけであるが、保険法第三五条は、単に「決定に異議(不服)のある者」といつてるだけであつて、異議の理由を制限事由の有無の点のみに限定してはいないのであるから、原告の右見解は採用できない。
次に、本件事故が原告の重大な過失によつて発生したものであるかどうかを検討しよう。
乙第二、第三、第四、第九、第一一、第一二、第一三号証、公務員が職務上作成したものであることによつて真正に成立したと認められる乙第七、第八号証(証人伊藤儀作の証言中、乙第七号証の成立を否定する部分は採用しない。)検証の結果、証人伊藤儀作、高木正男、鈴木茂養、田中稲吉、根本一郎、鈴木茂七、西島要三の各証言を総合すると、原告は、その炭砿内に、かつて浅倉炭砿が採掘した旧坑道が存在し、これに多量の滞溜水があるのを知つていたので、昭和二十五年一二月、第二斜坑右二片坑道から、約一八〇、〇〇〇立方呎の旧坑滞溜水を排出したが、第二斜坑右三片坑道の掘進に際し、その上山方部に滞溜水の存在する旧坑道を発見し、昭和二六年八月七日から二日間にわたつて、右三片二昇から約九八、〇〇〇立方呎の滞溜水を排出したこと、右第二回の滞溜水排出の際、原告鉱業代理人伊藤儀作らは、前記旧坑道内に入り、右三片二昇から約一〇間の地点(本件事故発生個所附近)まで進んでその内部を検討したが、旧坑道は右三片坑道とほぼ並行し、梁下二尺位が空いている程度に滞溜水があるのを確かめただけで、その測量等を行わなかつたこと、そして伊藤儀作は、この滞溜水を排出する必要があると考え、当時旧坑と右三片坑道との距離は約一〇米だつたので、旧坑道が四度の下り傾斜をなしているものとした上、右三片坑道を六度の上り傾斜で掘進すれば、約二六米で旧坑道に達すると計算し、右三片坑道の延長方向に、水抜坑道として右一片坑道を掘進することに決めたこと、同月一〇日本線斜坑が貫通し、右旧坑道および右三片坑道と交わるに至つたこと、同月二七日本線から右一片坑道の掘進が始められ、同年九月五日までに約一〇米、同月一〇日までに更に約五米掘進されたが、伊藤儀作は、旧坑道との炭壁が約三米と想定されたこの地点で、ボーリングによる水抜作業を同月一三日に行うため、ここで掘進を中止させ、一方では、第二斜坑にあるバックへ通ずる排水溝の設置にとりかからせるとともに、他方、右一片坑道の切羽に幅四米、奥行二米のボーリング座を造成させたため、右一片坑道の掘進距離は約一九、五米となつたこと、右一片坑道の保坑施設としては、坑口から約一〇米の間には枠組が施されていたが、その先には数本の支柱があるにすぎなかつたこと、本件出水事故は、右一片坑道の切羽附近で旧坑道との炭壁が破壊されたため起つたものであるが、爆音様の激しい物音とともに、同年九月一三日午前五時五分から約二〇分間という短時間内に、約一八、〇〇〇立方呎に及ぶ旧坑の滞溜水が流出したものであること、出水個所における右一片坑道と旧坑道との炭壁の厚さは、二米以下であつたことなどが認められる。証人伊藤儀作、根本一郎の各証言中、以上の認定に反する部分は採用しない。
ところで、原告は、前記旧坑道に相当量の滞溜水があることを知り、これを排出するための水抜坑道として、右一片坑道の掘進を始めたのであるから、常に旧坑道と右一片坑道との位置の関係に留意し、両者の間の炭壁を相当な厚さに保ち、右一片坑道の保坑施設を完全にするなど、不測の事故が発生しないよう十分に注意しなければならなかつたわけである。ところが、原告は、旧坑道の位置、形状、内部の状況について、前認定のように、目算による測定をし、右一片坑道掘進一五米の地点で旧坑道との炭壁の厚さが三米になるとの漠然としただけであつて、右一片坑道の掘進に際し、旧坑道内部の精密な測量をしたとか、ボーリングを使用して旧坑道との距離を確かめたとかの事実を認めるに足る証拠は全く存在しない。もつとも、証人伊藤儀作の証言によつて真正に成立したと認められる甲第八号証、証人伊藤儀作、佐藤光男、高木正男、菊地利長、根本悦雄、根本一郎、田中稲吉の各証言を総合すれば、原告は、昭和二六年七月下旬、現在第二斜坑右三片坑道と本線とが合する地点から、右一片坑道の方向に向つて、正面に一五米、左右三〇度の角度に各一〇米足らずの先進ボーリングを施したことが認められる(前掲乙第二、第三、第八、第九、第一三号証、証人鈴木茂七、西島要三、米田勝男、額田藤吉の各証言によつても、この認定を左右することはできない。)が、却つて、これらの証拠および検証の結果を総合すれば、右一片坑道の掘進は、右ボーリング施行個所から本線上二米以上上山寄りの地点から、前記ボーリングと関係なく行われたことが認められるから、これをもつて、旧坑道と右一片坑道との距離を確かめるためにされたボーリングであるとすることはできない。それのみではなく、旧坑に接近する場合には、乙第一〇号証の二に示されているように三〇度の角度で時々左右両側にボーリングを施行しないと旧坑の所在をたしかめることができず、危険この上もないことなのに、原告は、水抜坑道を掘進するにあたり、この側面のボーリングを施行したと認めしめる証拠は一もない。
そして、破壊個所における炭壁の厚さが二米足らずであつたことは、前認定のとおりであるが、旧坑道内の滞溜水の水圧だけを考慮するならば、この程度の炭壁を存置するだけで十分であるかもしれない。しかし、証人江口元起の証言によつても認められるとおり、滞溜水のある旧坑道においては、四周の炭壁が相当量の滞溜水を合有し、炭壁に裂目などのある場合には、地下水の循環が著るしくなる場合が多いのであつて、このため、時に天盤の落盤その他の炭壁の崩壊が起り、これによつて滞溜水の水圧に急激な変化が生ずることのあるのは、容易に予測できるところである。従つて、滞溜水のある旧坑道に近接して坑道を掘進する場合には、右の事情をも考慮した上、旧坑道との間に相当な厚さの炭壁を存置しておかなければならない。もちろん、存置すべき炭壁の厚さは、炭壁の岩質、滞溜水の水量その他の事情によつて異なるであろうが、保安規則第三九五条第五項が、出水のおそれが多い炭砿においては、先進ボーリングの孔底から五米以内に近接して掘進してはならないとしていることをみれば、右の場合にも、五米程度の厚さの炭壁を存置しておく必要があるといわなければならない。証人伊藤儀作の証言によれば、原告が前認定の第一回および第二回の抜水作業をした際、炭壁の厚さは、それぞれ一、五米および一、三米であつたのに、何らの事故も発生しなかつたことが認められるけれども、これらは、落盤などのなかつた場合に関するものであるばかりでなく、右証言および乙第五号証によれば、昭和二五年七月一〇日原告炭砿本卸引立における出水は、炭壁の厚さが一、五米あつたにもかかわらず発生したことが認められるのであるから、右二回の経験をもつて、前記判断をくつがえす資料とすることはできない。更に、本件出水事故の直前、原告炭砿内に地質の急激な変化が起つたとの点については何らの証拠もない。もつとも旧坑道の天盤に落盤のあつたことは検証の結果で明らかであるが、前掲乙第九、第一一、第一二号証、検証の結果、証人根本一郎の証言を総合すれば、右落盤の規模は、原告の主張するような高さ一〇尺余にも及ぶ大規模なものではなく、本件事故発生前にも、すでに相当量の落盤のあつたことが認められるのであつて、前掲乙第二号証および証人伊藤儀作の証言中この認定に反する部分は採用できないから、仮に右落盤が本件出水の直前に起つたものとするも、五米程度の厚さの炭壁を存置することによつて、右事故を防止することができたものといわなければならない。しかも本件出水事故は、旧坑天盤の落盤による水圧加重のために起つたものであるか、あるいはそれとも薄くなつた炭壁が水圧にたえかねて破壊され、旧坑の滞溜水が一時に突流するという異変のために落盤が起つたものであるか、ともかく、落盤と出水との先後を確認させるに足りる証拠がない。
そうとすれば、原告は、本線右一片水抜坑道の掘進に際し、旧坑道との間に三米程度の炭壁を存置すれば事故は発生しないと軽信し、しかも、容易に実施しうる正確な測量やボーリングの施行を怠つて、旧坑道の位置を明確にせず、旧坑道との炭壁の厚さが二米足らずになるまで掘進を続けたのであつて、その結果、たまたま旧坑道内における滞溜水の水圧により、右炭壁が破壊され、本件事故が発生したということができる。従つて、他の争点について判断するまでもなく、本件事故が原告の重大な過失によつて発生したことは明らかであるから、被告審査会の本件決定には何らの違法もなく、この点に関する原告の主張も理由がない。従つてその取消を求める原告の請求は理由がないから、これを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 斎藤規矩三)